これからは、好きな時に欲しいだけお皿を作る時代?
「DishMacker」 はMITの研究試作品として作られた、お皿製造機です。

試作品だけあって、みかけはかなりゴツいですが、かわいらしいお皿を作り出します。
このプレートに、圧力を加えて作り出します。
作られた物は、再度加熱する事によって、再利用が可能とのこと。
デザインに直接関係する話ではないのですが、ホテルなどでの需要はかなりありそうですし、普及すれば家庭用の機械も出てくるのでしょう。
あらためて使い捨ての時代が終わったことを実感します。


壁に収納するという発想が面白いですね。
(地震がちょっと怖いですが)

ご存知、スーパーポテトの杉本貴志氏の作品集「Super Potato Design: The Complete Works of Takashi Sugimoto: Japan's Leading Interior Designer」が昨年末に海外で発売されました。
氏の作品集としては、意外にも初めてとなるそうです。
「Bar RADIO」などの初期の作品から最近の作品まで、かなり読み応えのある、重厚な内容になっております。(全て英語です)
現在、南麻布のデザインショップ「designshop」(港区南麻布2、TEL 03-5791-9791)では、展覧会「The Forms of Transparency−とうめいのかたち展」が 2006年12月10日(日)~12月24日(日)まで開催されています。
東京近郊の小規模製造業者と若手デザイナーが共同で製作した家具やプロダクトのプロトタイプの展覧会である「とうめいのかたち展」には、さまざまなアクリル樹脂を使った新技術を使った作品を見る事ができるそうです。
参加デザイナーは、川辺直哉建築設計事務所の川辺直哉さん、ハラダデザインの原田一朗さんなど13組が参加されています。
The Forms of Transparency展 実行委員会によると、「本展ではこの様な新技術やネットワークを駆使した家具・プロダクトのプロトタイプを制作し、単に成果品だけでなくその製作過程を紹 介することにより、小規模製造業者と若手クリエータの共同・少量多品種のものづくりの可能性を鮮明に浮かび上がらせることを目標にしています。」とのこ と。
SANYOのeneloopといえば、2006年度 Good Dsign Award の金賞を受賞などで有名な充電型のエコ電池ですが、eneloop関連の製品が最近発売されました。
〜「エネループ」の世界が広がる「エネループ ユニバース」第一弾〜
太陽光で充電できる「ソーラー充電器」と使い捨てない「充電式カイロ」を発売
詳しいスペックはリンク先を見ていただくとして、簡単なご紹介。
kairo(カイロ)はすでに、売り切れ続出の好調な出だしだそう。
webmasterも買おうと思って、AMAZONをチェックしたけど、すでに在庫切れの状態でした。
それに比べて、先行したソーラーチャージャーは、検索しても売っているところを見つけられませんでした。
販売店を知っている方がいたら、webmasterまでご一報ください。
繰り返し使えるエコ電池は、他社も多数発売していますが、その中でも株式会社AAK(アーク)の「置く電池AB-001」が注目されています。
単三型のよくある充電池に見えますが、秀逸なのがその充電方式。
なんと専用の「置く電池専用充電器AC-001」の中に、「置く電池を内蔵した電気機器をそのまま入れるだけで充電」できると言う点。
つまり、リモコン等から電池を取り外すことなく、リモコンごと充電器の中に放り込めば良いと言う、なんともお手軽な充電方式なんです。
電磁誘導誘導を利用した非接触型の充電器ならではのアイデアですね。
ただ、トップページにある販売予定時期は、とっくに過ぎているのに情報が少ないので、多少の不安がありますが、期待度は大です。
今週の木曜日、11/1の18時より、24azabu.netの展覧会「デザイナーズ・メーカー展 vol.5」のオープニング・パーティが開催されます。
ご招待DMをお持ちでない方でも、「サイトを見た」と言っていただければご入場いただけますので、是非ご参会下さい。みなさまのお越しをお待ち申し上げております。
デザイナー自身が「おもしろい!」と感じることを追求し、「これを作るのだー!」と自らプロデュースしたモノを発表するのが<24azabu.net>の展覧会「デザイナーズ・メーカー展」です。
第5回目となる本展では、参加デザイナーの出展コンセプトから「Relation/関係性」というテーマを導き出し、クリエーションの原点ともいうべき「関係性」をデザイナーがどうとらえているかをメッセージします。
本展の特徴である「おもしろいことを、やろう!」というコンセプトはますます強化され、若手からベテランまで、商品化に向けたものからアイデア溢れるプロダクトまで、バラエティ満載にお届けします。
どうか、ご期待下さい。
24azabu.net の第4回目となる展覧会「デザイナーズ・メーカー展」が、今週4/27(金)よりいよいよ開催となります。
初日の夕方、参加デザイナーを囲んでささやかなレセプションパーティを開催いたしますので、ぜひご参会下さい。
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Reception Party
4月27日(金)18:30~20:30(18時~受付)
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なお、駐車場には限りがございますのであらかじめご了承下さい。また、アルコール類のご提供がございますので、ご来場は公共の交通機関をご利用くださいますようお願いいたします。
11月3日(金)~5日(日)まで開催されていた24azabu.net exhibition 2006 デザイナーズメーカー展 vol.03 が無事閉会いたしました。おかげさまで、たくさんのご来場をいただき、メンバー一同、心からお礼を申し上げます。
ウェブサイトもリニューアル作業を続けており、本展の内容も詳しく紹介してまいりますので、今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。
参加デザイナーのそれぞれのコンセプトは、こちらから。
岡田拓也/奥昌子/笠原英里子/梶原秀剛/川野綾子/重政幸治/高松純/
瀧口健介/夏目智道/宮崎祥江/山田尚弘/吉田貴子/渡邉大祐(五十音順・敬称略)
会場構成のコンセプト
24azabu.net の第4回目の展覧会が、大阪・阪急百貨店のインテリアショップ『comfort Q』にて開催されます。今回は、『食欲プロダクト』と題して、ダイニングスペースにスポットをあてた新しいプロダクトをご提案します。
4名のゲストデザイナーを迎えて、ますますパワーアップして『デザインのおもしろさ』をメッセージしていきますので、ぜひご来場くださいますようお願いいたします。
誰に頼まれたわけでもなく、デザイナー自身が「おもしろい!」と考えてつくったものたちを発表する<24azabu.net>の今年の展覧会は、東京デザイナーズウィークと同時期開催です!
今回は、参加メンバーも増えさらにパワーアップして、未発表の最新作をドドーンと発表します。
デザインが街にあふれるこの時期、他では見れない「デザイナーの新しい提案」をお届け致します。
会 場:SPAZIO 1 (東京都渋谷区恵比寿南2-20-7 カッシーナ・イクスシー本社ビルB1F)
会 期:2006年11月3日(金・祝) 4日(土) 5日(日) 11:00〜20:00 (最終日は16:00まで)
主 催:24azabu.net (http://www.24azabu.net)
会 場:SPAZIO 1 (東京都渋谷区恵比寿南2-20-7 カッシーナ・イクスシー本社ビルB1F)
会 期:2006年11月3日(金・祝) 4日(土) 5日(日) 11:00〜20:00 (最終日は16:00まで)
主 催:24azabu.net (http://www.24azabu.net)
誰に頼まれたわけでもなく、自分たちが「おもしろい!」と感じたものを作り続ける西麻布発のデザイナーズネットワーク<24azabu.net>。
今回は、大阪のライフスタイルをリードする阪急百貨店のインテリアショップ<comfort.Q>とのコラボレーションによって、できたてホヤホヤの家具やプロダクトを関西の皆様に向けて発表いたします。
| 会 場 | comfort. Q (コンフォートQ) 大阪市淀川区野中南2-8-10阪急インテリアスタジオ館 http://www.comfortq.com 会場へのアクセスはこちら。 |
|---|---|
| 会 期 | 2006 年 3月 17日(金)〜 27日(月) 10:00〜18:00 ※土日祝は19時まで |
| 主 催 | comfort. Q + 24azabu.net |
| お問合せ | 24azabu.net 事務局 (アイスラボ内 担当:重政) TEL. 03-5772-1345E-mail: shige@24azabu.net |
http://www.seikatu-sutairu.com/
http://www.kasahara-design.com
http://www.beatnik-inc.com/
http://www.gallery-closet.jp/
http://fras.jp/
http://www.kajiya-produkt.jp/
この3月、幸運なことにジャカルタ、上海の2都市の建材、家具の工場を見て廻る機会に恵まれました。
どんな国でもオートメーション化された精巧な工場から、手作業の工場まで様々なレベルの工場があると思います。
ジャカルタでは、広大な敷地に数棟の建物が建ち並び、建物ごとにラインが分業化された工場を見学しました。
家具でいえば、木材をカットし、スライスし、パネルに組立て、表面材をプレスし、塗装するといったラインがシステマティックに組まれ、要所要所でコンピューター制御された機械を使い、
製品化されていきます。
ただし人件費は安いので、人の数は多いのですが。
一方、上海で視察した工場はまったくの正反対。
原始的なケースで敷地内にポンと建てられた建物はバラック風、機械類は何一つなく、数人の人たちが小さなアイロンで表面材をプレスしたり、失敗しては手で剥がしたりしていました。
聞くと価格は驚くほど安いのです。
最近自分のデザインした家具を商品化するプロジェクトに取り組んでいるため、日本のマーケット、価格、品質が大変気になります。
どこにフォーカスを合わせるかというのも大変難しい問題です。
日本人の購買意識は大変複雑になりました。
戦後の人並みな量的充足から、自分の価値観にあった質的充足へと変化し、市場は細分化し、多様化しています。
私たちはバブル崩壊も含めた長い購買経験を積んで、高価格なものは品質の高いもの、安いものは品質の低いものという構図がもはや成立しないことを知っています。
それほど、日本の品質は、レベルが高くあまり差がないので、自分がこだわるものには迷わずお金をかけますが、興味の低いものは極力安いものを買います。
他のアジアの国では先程の例のように、価格と品質が連動しているケースもありますが。
日本では、ものもデザインも溢れています。
革新的な新商品や、新しいデザインの出現の難しさも十分感じます。
今、私たちデザイナーに求められているものは「人と何かしら違うもの、他にはない何か」でしょう。
ただそれは、個性的であろうと思うことから生まれるものではなく、人の気持ちが想像できることによって、他との違いを実感することなのだと、あらためて感じた3月の旅でした。
先日、ショップデザインの仕事でバリ島に出張しました。
夕方、バリのデンパサール空港に到着し、夕方といってもまだ明るい光が残っているなか車で街中をぬけ、海が望める小高い崖の上にあるホテルに向いました。
ホテルに着いた時にはすっかり日も海に沈み、あたりは一瞬のうちに夜の暗闇へと様子を変えていました。
闇に溶け込んだエントランスでは、点在する炎の光と、静かなガムランの音楽だけが New Comer を出迎えてくれます。
やがて部屋に案内され、扉を開けて室内に入った瞬間、不思議な感覚に捕われました。
『神秘的な浮遊感』とでもいうのでしょうか。
この感覚はどこから来るのだろう・・・
次の瞬間じっと部屋を見渡してみました。
・・・そうだ。天井にも壁にも照明がない。
あるのはフロアやテーブルの上に置かれたランプだけ。
その秘そやかなほの暗さは、私をなんとも言えない心おちつく感覚に包んでいました。
ものの気配が漂い、粒子がにじんでいるかのような空間が人のテンションを穏やかにします。
それは都会で白く眩しい光のなかで生活している私には、異質な、しかし、なぜか懐かしい感覚でした。
東京ではほとんどの家庭が、夜でも明るい蛍光灯の光で囲まれています。
(高度成長期には、豊かさの象徴であったのですから)
現在住宅のインテリアデザインの仕事をしていても、照明が暗いとクライアントにまず指摘される項目です。
ましてや商業施設では、明るさを競い合い、どんどんエスカレートしつつ世界でも類を見ない、昼も夜も24時間白く輝く街になっています。
疲れるわけですね。
眠るまでテンションがかかっているのですから。
光が、人間の心と身体にこれほどまでにストレートに深い影響を与えるものなのだということを、バリという違う環境のなかで実感してみて、頭ではわかっていても、皮膚感覚として捉えることの難しさを知りました。
私が最も感動したビーター・ズントーのスイス『ヴァルスの温泉施設』では、光と素材と音と皮膚感覚が大きなテーマで、そこを訪れて療養する人たちの心におおいなる影響を与えています。
バリを通して、デザインの奥深さを実感した数日間でした。
誰かを、何かを、嫌う。
誰かを、何かを、憎む。
そんな感情は、確かにあった。
いや、今もあるのかもしれないが、
今やそれは、どこか奥底に潜んでいるようだ。
若い頃、この感情は、
確かなエネルギーとしてあった。
自分を突き動かす最大のパワーは、
「怒り」であり、「悔しさ」だった。
何か、やろうよ!という前向きのパワーより、
「くっそー!今に見ていろ!」というような
後ろ向きのパワーの方が強大だった。
悔しくて眠れなかったり、
絶対に見返してやろうと思うことで、
出し得る限りのエネルギーを動員し、
それで仕事の数々を乗り越えてきた、
そんな、気がする。
しかし、今は、そんなことはない。
ねえ、あの感情、どこ、いっちゃたの・・・?
と、問いかけたくなるぐらい、ない。
とはいえ、エネルギーは今も、ある。
どこからともなく、湧き上がってくる。
それは、以前より強いものかもしれない。
でも、以前はあったよなぁ、怒りのエネルギー。
そんなことを思い出しつつ、読んだ本。
作家は、舞城王太郎。
たいそうな、名前。
ちょっと、ひいた。
で、変なタイトル。
「なんなの、コレ?」と思いつつ、
とにかく、読み進んだ。
結果を言うと、ものすごく、おもしろかった。
すっごい、大きなエネルギーを感じた。
主人公は、4人兄弟の末っ子。
そう、男ばっかりの4兄弟。
内容は言わないけど、
このタイトルには、こんな意味がある。
ギクシャクする4兄弟と父親の中で、
唯一、コミュニケーションのよりどころ
祖母・龍子が、がんに侵される。
その激痛にまみれた闘病生活の末、
龍子は、こんな台詞を繰り返す。
「生きてても虚しいわ。どんな偉いもんになってもどんなたくさんお金を儲けても、人間死んだら煙か土か食い物や。火に焼かれて煙になるか、地に埋められて土んなるか、下手したらケモノに食べられてしまうんやで」
最愛のおばあちゃんが、
こんなことを口走る光景、
孫にとっては限りなくキツイ、キツ過ぎる。
物語の大半を占める主人公の回想シーンには、
こんな悲しくも切ない思い出が満載されている。
しかし主人公は、あくまでクールに、
乾いた、極めて冷徹な回想を繰り返し、
にもかかわらず、その淡々とした語り口によって、
物語が感情に押し流されるのを見事に回避する。
物語の中心にいるのは主人公ではなく、
父親と、4兄弟の次男、二郎だ。
二郎は、父へと強く傾倒する愛情ゆえに、
いつも父を激怒させる結果となってしまい、
最後は、庭にある土蔵に閉じ込められる。
日常的にはあまり立ち寄ることのない空間。
昔の家屋には、そんな空間があった。
そういえば、私の生まれ育った家にも、
裏庭に納屋があったことを憶えている。
子供にとっては、なぜか恐ろしく、
近づきたくはないが、気になって仕方のない空間。
私も、何かワルサをして親を怒らせて、
納屋に閉じ込められたことがあったかもしれない。
でも、そうだとしても、それは暗い思い出ではない。
その時は、親を恨んだかもしれないが、
そんな感情は、今は、みじんもない。
それは、昔の家にはあった
究極のプライベート空間だったのかもしれない。
日常では全く必要のない空間。
どこか別の次元につながっているような、
そんな不思議な空気と時間が支配する空間。
今や、そんな空間は望むべくもない。
マンションの数十平米の空間では、
全てが日常化してしまう。
親の怒りもそのまま空間に漂い、
子供を、本当の意味で、
一人にすることさえできない。
子供に与える「個室」は、
一人で生きるための空間、ではない。
そんな息も詰まりそうな空間だから、
親が子を、また、子が親を、
傷つける事件が起こるのではないか。
たった一人きりになって、
じっくりと考えられる非日常の空間が
人間の生活には絶対に必要なのだ。
怒りを解放し、憎しみに向かい合う、空間が。
前を向いて生きていくしかない、とは言うが、
後ろ向きの自分に向き合う時間も必要だ。
後ろ向きに、全力疾走するような、
そんな自分をしっかりと認識できる 「空間」。
後ろ向きに、全力疾走、か。
でもそれは、極めて、健全な心の運動かもしれない。
小説の舞台として描かれる都市が、
都市そのものを象徴してしまう場合がある。
それは、舞台としての役割を超え、
都市の個性として読者の脳裏に刻まれる。
例えば、「新宿」という街。
ここを舞台とする小説はたくさんあるが、
ひとつの作品に代表させるとすれば、
「不夜城」を挙げる人は少なくないだろう。
もちろん、「新宿鮫」も捨てがたいけど、
新宿の「新宿性」だけに特化してしまえば、
「不夜城」ということで、異論はない。
この馳星周のデビュー作は、
それほど鮮烈に新宿という街を印象づけた。
それは、実際の新宿以上に、新宿であり、
新宿は「不夜城」の中に、永遠に生き続けるだろう。
約 10 年前に出現したこの小説を、
私は長い間、手にせずにやり過ごしてきた。
避けてきた、という方がより正確かもしれない。
よくは分からないが、近づかない方がいい、
そんな感覚があったことは確かだ。
あるいは、新宿という街に打ちのめされた経験、
あの忌わしい「ぼったくりバー」での記憶が、
甦ってしまうことを避けたかったのかもしれない。
しかし、ひとたび、恐る恐る手に取った途端、
逃れられない強烈なパワーに惹き付けられてしまった。
その強烈なパワーを放つのは、暴力とセックスの描写、
それ以上に、馳星周の世界を決定付けているものは、
果てしない恨み、憎しみと、裏切りの連鎖、だ。
馳星周の登場人物には、ほとんど感情移入ができない。
普通は小説の愉楽とも言うべき主人公への感情移入は、
馳星周の世界では、徹底的に排除されてしまう。
誰にも共感できず、誰にも好意を傾けることができない。
もちろん、現実の新宿には愛すべき人もいるはずだ。
何より、馳星周的新宿が実際に存在したとすれば、
その街には、毎夜死体の山が築かれてしまうだろう。
そんなことはあり得ないし、この新宿は、あくまで
ヴァーチャルな世界として存在するに過ぎない。
しかし、馳星周が紡ぎ出す都市のイメージは、
彼の頭の中にあったはずの、その街は、
実際の街以上に、リアルな空気を放っている。
既に、私の頭の中にも、その都市は築かれている。
そして、三部作で描かれる「不夜城」以上に、
強烈な都市のイメージを映し出す作品が、これだ。
「雪月夜」
舞台となっている都市は、根室。
この極寒の最果ての街を舞台に物語は展開する。
私自身、根室を訪れたことがないので、
この馳星周的根室が、私の根室の全てである。
今のところ、は。
この小説の最後に、馳星周は、
「付記」として、こう締めくくっている。
「98 年の冬、
わたしはテレビの取材で根室を訪れた。
それ以前も以後も根室を訪れたことはない。
本書は、わたしのとち狂った脳が
紡ぎだした物語にすぎない。
はた迷惑な話だとは思うが、
本書をオホーツク周辺で暮らす
すべての人々に捧げる」
実際、根室の人は、はた迷惑に思っているかもしれない。
なぜなら本書は、「北の国から」のような、感動的で
郷愁を誘うような優しさの欠けらもない物語だから、だ。
大まかなストーリーを、解説を書いておられる
香納諒一氏の一説より引用させていただく。
「根室でくすぶる主人公幸司の元へ、
ある日、暗い絆によって結ばれた祐司が現れる。
祐司は幸司に、やはりかつての悪友である
敬二が二億の金を組から掠め、
ナターシャというロシア人娼婦を連れて逃げたので
探し出すのに協力しろと持ちかけ、
ふたりは敬二を追う。
それだけである」
それに様々な登場人物が絡んでくるのだが、
彼らの行動原理も、極端に単純化されている。
要は、相手を出し抜き、裏切りを繰り返しつつ、
主人公たちと張り合いながら、金を追う。
ただ、それだけなのだ。
地元暴力団の木村、その組員の武、
悪徳警官の恩田と太田、アカ新聞の記者の加藤、
市会議員の高谷と、その愛人でスナックのママ加代子、
元 KGB 工作員の不良ロシア人ミーシャ、などなど、
いわゆる、心優しき愛すべき人物は、皆無だ。
皆が、相手を出し抜くことだけを考え、
憎みあい、騙し合い、裏切りながら、
ただひたすらに、金を騙し取ろうとする。
登場人物の過去やトピックス的な挿話がないのは、
この裏切りの構図を限りなくシンプルに、
強烈に物語ろうとする作者の意図である。
主人公の幸司は、根室で漁師の子供として生まれる。
父親は現状ロシアの領海である北方領土沿岸で操業し、
ロシアの巡視船に拉致され、その後、
ロシア船の操業をサポートする仕事を始める。
幸司は、幼い頃から「露助船頭の息子」と罵られ、
誰にも心を開かずに、全てを呪って成長する。
その幸司の、腐れ縁の相棒が、祐司だ。
祐司は、アル中の地元ヤクザの息子として生まれ、
幸司と同様、街の全ての人間から罵られ、
虐げられる少年期を余儀なくされてきた。
幸司と違うのは、中学時代に著しく肉体が成長し、
暴力によって相手を叩きのめす術を得たことだ。
祐司は幸司を叩きのめし、幸司は祐司を虚仮にする。
彼らの関係を強く結び付けているのは、
友情といった甘っちょろいものでは決してなく、
心の奥底に深く宿した憎しみへの呼応であり、
酷似する境遇から発露する、暗黒の絆である。
二人は、どこまでも憎しみあいながら、
お互いをどこまでも深く理解している。
幸司は、祐司から逃げ出したいと思い、
そう思っていることを知っている祐司は、
決して、幸司を逃がそうとはしない。
幸司は、高校卒業の後、東京に出て、
ロシアに加担した父親に反抗するように
右翼団体に属し、戦闘部隊の訓練を受ける。
それを知った祐司もまた、
幸司を追うようにして、右翼に入会する。
そこで、敬二に出会うのである。
敬二もまた暗い過去を持つ青年であり、
自分には、憎しみ合う相手さえいなかった、
と、羨望の念を抱き幸司になついてくる。
幸司は、そんな敬二に殺意さえ抱く。
しかし幸司は、敬二を受け入れ接近し、
祐司は、敬二を敬遠し、厭う。
この作中に、リフレインのように、
何度も繰り返される、一節がある。
幸司と祐司。祐司と幸司。
幸司と敬二。祐司と敬二。
三人は、同様の憎しみを抱えつつ、
お互いに対峙し、離れられない関係である。
三人が抱いた激烈な憎しみの情は、
自らへの、相手への憎しみであると同時に、
世界そのものへの憎しみとして吐き出される。
物語の最後、登場人物のほとんどは、
雪の降り続く山中へと引き寄せられていく。
幸司が見つけ出した金を強奪するためだ。
そして、そこに集まった全員が、
殺し合いを繰りひろげた末、死ぬ。
馳星周的世界においては、
登場人物が死ぬことは、驚くべきことではない。
他の作品も例にもれず、重要な役割を担う人物も、
最後には、いともあっけなく、死んでしまう。
読み始めた途端、その結末は、
物語全般を覆う暗黒のベールで暗示されている。
要するに、登場人物が生きている間は、
物語は終わらずに進行する、ということだ。
その殺し合いの、山中。
雪が深々と降り積もる中、
天空の月が、輝いている。
皓々と輝く満月。
晴れ渡った夜空から降ってくる雪。
幻想的で矛盾に満ちた光景。
満月に降る雪、「雪月夜」は、
人間の貪欲、あくなき欲望を覆い隠す、
濃密な白の空間、だ。
欲望は、白に消されてなくなった訳ではなく、
その濃密な白の中で、うごめき続けている。
いわば、白は、清楚や静謐の象徴ではなく、
人間の底無しの欲望を呑み込むホワイトボックスだ。
混沌たるブラックボックスを凌駕する、
果てしなく貪婪で濃厚なホワイトボックス。
その、「欲望のホワイトボックス」は、
現代社会の欲望装置としての空間を暗示する。
商業ビルに濫立する高級ブランドの空間、
そのほとんどは、ホワイトボックスであり、
人々の欲望を際限なく掻き立てていく。
人々は、欲望に塗り込められた白の空間で、
あくなき欲望を満足させるため、金をバラまく。
濃密な「白」に覆い尽くされたホワイトボックスは、
高度に成熟した消費経済社会の、欲望の記号だ。
しかし、である。
「雪月夜」の根室の雪に覆われた山中を読みつつ
なぜ、こんな話になってしまうのか・・・・・
自分でも、いささか悩み込んでしまうが、
それでも、メトロポリタン東京に集積する
白の空間を見るたびに感じていたことが、
ここぞとばかりに噴出したのかもしれない。
あるいは、女房に引きずられて行く
玉川高島屋の、あの、「白の空間」に、
いつもドキドキしてしまっている私の恐怖が、
「雪月夜」に反応してしまったのかもしれない。
いずれにしても、
「白の空間」は、コワイ。
ある時から、長い小説にしか興味がなくなった。
少なくとも、上下巻、それ以上なら、なお良い。
花村萬月を手に取った理由も、それだった。
とにかく、分厚い、その質量に眼がくらんだ。
読んでみて、ぶったまげた。
そこは、激烈な暴力とセックスの描写に満ちていた。
読み進むことをためらうほどの容赦ない暴力と、
あからさまな欲望で窒息しそうなセックスの光景。
しかし、既存の文学世界をなぎ倒すかのような
悪意にも似た世界を突き進んだその先には、
なぜか満ち足りた精神と爽やかな読後感がある不思議。
花村萬月という作家は、いったい何なんだ!?
と頭を抱えたが、ある解説を読んで一瞬に了解した。
以下、その解説に引用された氏の言葉。
「私は小説という表現が目指しているものは、
新たな倫理の確立、それしかないと信じています」
なるほど、新しい倫理の確立のためには、
まずは、既成の倫理の存立を危機にさらし、
言葉を失うほどの状況に物語をおくことによって
はじめて「新しい倫理」は発露する、ということか。
「新しさ」を古い言葉で記述することはできず、
言葉を喪うからこそ、そこに「新しさ」が生まれる。
しかし、それを「言葉の世界」でやろうというのだから、
その作業の困難さは、素人には計り知れない。
それ以降、ずっと花村萬月を読み続けている。
簡単に言えば、ファンになっちゃったのだ。
ある時、知り合いに「お薦めの本は?」
と聞かれ、迷わず、花村萬月と答えた。
その相手にも「あなたのお薦めは?」
と聞いたら、宮部みゆきの「火車」だった。
早速、「火車」を読んでみた。
それは、巧妙に仕組まれたストーリーで、
複雑に絡み合った糸を丁寧に解すように物語は展開し、
最後は、およそ犯人らしくない犯人に行き着くのである。
ストーリは巧みで、読者を強引なまでに惹きつけ、
気付くと、結末に導かれていたという快感であった。
しかし・・・はっきり言っちゃうと、もの足りなかった。
それは、何と言えばいいのか、
きっと、美し過ぎるのだ、あまりにも。
まるで、何かのカタマリを巧妙に彫り込んだ末、
最後には美しい彫刻が完成した、という印象だ。
花村満月は、ストレートに言えば、その逆だ。
はじめに、そのカタマリをぶっ壊そうとする。
凶器にも似た言葉でそれを徹底的に粉々にし、
その残骸で、新たに何かを構築しようとする。
ゆえに出来上がった彫刻は、
既成の美意識では語れず、
人によると、嫌悪感さえもよおすらしい。
ちなみに、私が薦めた相手も、そうだった。
どこが面白いのか、分からない・・・と。
要するに、花村萬月は、
常に、シロクロがはっきりしている。
時に人は、それを嫌悪する。
もっと、ファジーにしておきたいのだ。
良いとか悪いとか、はっきりさせないで、
グレーゾーンで、意味を弄びたいのだ。
でも、花村萬月は、それを許さない。
読者を、ファジーなゾーンに置いてはくれない。
常に、究極のどちらかの決定を強制する。
この「土壇場感」を容認できるかどうかは、
読者の、論理ではなく、生理に帰属する。
もっと大げさに言い切ってしまうならば、
その人の生き方そのものに関係するだろう。
だから、先ほどの氏の言葉に戻れば、
「既存の倫理で十分よ、新しい倫理など
無理につくり上げる必要ないじゃん!」
って方には、花村萬月は無用の長物である。
しかし、そうではなく、
「何?新しい、倫理!?」ってことに、
おもっきり反応してしまう諸兄には、
この花村萬月的世界は、響くのだ。
おっそろしく、響く、のだ!
そう、花村萬月を読むということは、
新しい倫理への、旅なのだ!
かなり大仰なイントロになってしまい、
いささか赤面モノではあるが、
しかし、言っていることは間違いではない。
(と、ここは言い切ってしまわないと、
それこそ、恥ずかしくなってしまいそうだ)
そろそろ本題に入らないと、まずい・・・
そこで、その 「シロクロはっきりの世界」
その究極が、この本だ。
そのタイトルには、
0と1で動くコンピュータのデジタルの原理と、
絶対的な主従関係の中で、白黒つけずには
生きてゆけないヤクザの生き方が表されている。
そう、簡単に言っちゃえば、「ヤクザもの」の本だ。
しかし、もちろん、そう簡単には言えないんだけど。
主人公は、鷲津という京大出身の家庭教師、
それに、パソコンのインストラクターもやっている。
頭がいいだけに、全てが見えてしまい、
世間や社会や会社やその他全ての愚劣さを
知性的にも感情的にも認識して見切ってしまう。
ゆえに、会社も辞め、社会のはずれ者として、
一人で家庭教師をするしかできない人間である。
そんな鷲津に、武闘派ヤクザ「乾組」組長の
一人娘、乾倫子が家庭教師を依頼する。
この乾倫子の人格構造も半端なものじゃない。
ヤクザの娘ということで、幼い頃から特別扱いされ、
腫れ物に触るような扱いを受けて育った。
しかし、普通の女の子には絶対に理解できない
経験を積み重ねているので、恐ろしく聡明だ。
その女子高生、倫子が鷲津に対して、
本気か、思いつきか、現状否定の結果か、
「京大に入りたい」と、家庭教師を依頼する。
同時に、父親であり乾組組長の乾十郎が
最近はじめたパソコンの指導もすることになる。
この乾十郎は、武闘派の博徒で、
そのシロかクロかを徹底する生き様は、
壮絶であり、その行動原理には余白がない。
もちろん、メチャメチャ怖い人なのだが、
読み進み、その人格を理解すればするほど、
思わず、「ついて行きたい」という思いが生まれる。
(もちろん、ついて行かない、し、
というか、ついて行けるはずもないけど
でも、そんな気持ち、わかる人、いると思うなぁ)
その乾組長に心酔する子分が、中嶋だ。
元暴走族の中嶋は、自らを乾組長の犬と認め、
「組長の命令なら、親でも殺します」と断言し、
その生き方を、徹底的に完遂しようとする。
この中嶋が、またいい味を出していて、
その一途な生き方が物語に厚みを与えている。
物語は、倫子と鷲津の限りなく甘美で
果てしなく壮絶なラブストーリーとしての側面と、
乾組長たちのヤクザ世界が密接に絡みあって展開し、
その激流に、鷲津は翻弄されつつ、成長していく。
後半のくだりで、中嶋は鷲津に、
「虚無、あるいはニヒルとは何か?」
ということについて、教えを請う。
乾ファミリーが「血讐」のために、
(注:復讐ではなく、血讐、ですよ)
東京から神戸に向かう車中で、のこと。
鷲津は言う。
ニヒルの意味は、虚無。
ニヒリズムの対語は、リアリズム。
絵画を例にとってみると、
リアリズムは、意味や現実に奉仕する。
ニヒリズムは、自分自身を現実とし、
新しい意味を自覚し、世界と意味、
現象と現実を描き換える。
ゆえに、ニヒル、つまり無の思想は、
自立した個人の思索と態度があって成立する。
いわば、自ら獲得しなければならないもの。
時に、自らの意思で、強烈な闇までも
あからさまにしなければならないことがある。
さらに、鷲津は続ける。
自分は、乾組長や中嶋など、
アウトローと呼ばれる人と知り合って、
アクティブなニヒルを見たように思う。
ひどく不完全なアクティブニヒリスト。
場合によっては、惨めなリアリスト以下の、
ひび割れた無様なアクティブニヒリスト。
しかし、そこには、
ニヒルであろうとする、意思がある。
意思とは、道徳的な評価をくだす主体であり、
かつ、客体である力のこと。
主体と客体の双方を兼ね備えた力、
まさに、意思。
また、意思とは、
理性による思慮と、
その選択を決心して実行する能力。
そして意思は、
知識と感情に対立するもの。
乾組長たちには、
不完全ながらも、意思がある。
それは、能動的な無への志向。
鷲津は、乾組長たちの世界への
鮮烈な羨望を独白する。
そして、中嶋は言う。
「先生、撃ちましょう」
おっと、いけない。
このままだと、本題にまで行き着けない。
しかし、このあとの「虚無:ニヒル」の定義には、
かなりビリッと痺れること間違いないので、
気になる方は、是非、ご一読のほど。
では本題、
そう、「小説的空間」にテーマを絞る。
乾組の本部兼自宅は、間口が狭く奥に長い。
京都で言うところの「ウナギの寝床」だ。
ちなみに、京都は昔、
間口に対して年貢が科せられたので、
それで間口を小さくして、奥に長くなったらしい。
節税の意識は、古今東西、変わらないけど、
それが都市の景観と文化をかたちづくったわけだ。
現代の大型公共投資でできた再開発地域と、
民衆の知恵でできた街のどちらが美しいか?
税金使ってツマンナイ街ばっかつくる行政に、
ここで文句のひとつも言いたいところではあるが、
話題がとめどなくそれるので、それは、またの機会に。
格子戸を抜けて玄関までの通路は異様に狭い。
その上、その狭い空間に、巨大な庭石などが配され、
それこそ、人ひとり通るのがやっと、という設えである。
真っ直ぐに進めないようにしてあるのは、
殴り込みなどを想定したヤクザ的発想だ。
静けさの支配するこの屋敷は、
いわば、常時臨戦態勢なのだ。
その重苦しい気配と冷たく緊張した空気。
それらに支配された屋敷に、客用のトイレがある。
その広さは記述されていないが、
たぶん、三畳くらいは、ゆうにありそうだ。
乾組の若者は、屋敷に住み込んで、
まず最初に、そのトイレを磨く命令を受ける。
若者がいくら丹念に磨いても、
乾組長は、いろいろと難癖をつける。
それは、半日はおろか丸一日続くこともある。
中嶋は、それを早朝から深夜まで、
顔色ひとつ変えずに、磨き続けた。
それは、真冬だった。
かじかんで感覚をなくした指先に
息を吹きかけることもせず、中嶋は磨く。
日が暮れかける頃、中嶋の指から血が滲み始める。
それでも、中嶋は一心不乱に磨き、
バケツの水は、血で赤く染まった。
乾組長がトイレに現れたのは、午前0時。
中嶋は、血の滲む指を腰の後ろで組んで隠し、
組長の検分を、無言のまま受ける。
その時、中嶋の指から血が滴り落ち、
磨き込まれたトイレの板の間を染めた。
顔が映りそうなほどに輝く板の間に、
鮮やかな朱が盛り上がり、不規則に散る。
中嶋は、組長に謝り、磨き直そうとする。
組長は、「どけ」とひと言だけ中嶋に告げ、
中嶋はうな垂れたまま、便所の端に移動する。
組長は、おもむろに四つん這いになって、
板の間を汚した中嶋の血を、舐めた。
組長は、中嶋の血を舐め上げると、
首をしゃくって、トイレ掃除の終わりを告げた。
あざとい。
なんとも、あざとい。
あざと過ぎる・・・
「あざとい」という言葉の意味を
これ以上なく正確に表現する光景だ。
そして、この1600枚という超長編の、
描写されるたくさんの空間の中で、
最も私の脳裏に焼きついた空間である。
こういうところに反応してしまうのは、
私にも、このトイレ掃除の経験の記憶が、
色濃く残っているからかもしれない。
私の修行時代も、トイレ掃除から始まった。
建築家のアトリエに入社して、
最初にやらされたのが、トイレ掃除だった。
来る日も来る日も、
例外なく、トイレ掃除から一日は始まる。
次の新入りが入社してくるまで、
それは、当たり前に続いていくのである。
今となっては、懐かしい思い出だ。
それにしても、 そんな事務所、
今どきあるのだろうか?ま、どうでもいいけど。
だから、今、こう断言できる。
空間とは、どこまでも磨き上げるべきものであり、
いや、磨き上げなければならないのだ。
そういえば、かの倉俣史朗さんは、
自身がデザインされた空間の施工の時、
自分で掃除することを欠かさなかったらしい。
その話を聞いたとき、はっきり言って驚いた。
倉俣さんと言えば、「インテリアデザインの神様」
といっても過言ではないだろう。
その神様が、「僕にはこれぐらいしかできないから」
と言って、現場で、ガラスを磨いておられたのだ。
だから、僕たちが怠慢をかましていいわけはない。
空間に限らず、手にかける全てのものは、
すべからず、磨きに磨いて、磨き抜いて、
見たこともない輝きに出会えるその時まで、
連綿たる作業を繰り返すことが肝要なのだ。
そして、その作業の末にあるかもしれない、
新しい何かの誕生を、夢に見つつ。
今回は、「空間を磨く」ということがテーマになった。
はじめからそうプランして書き始めたわけではなく、
書き進んでいるうちに、こうなってしまった。
「小説的空間」ということで、
あたかも空間のデザインがテーマのようであるが、
実は、そうでもなかったようだ。
自分でも、何だかよく分からない。
何かの因果で読んでしまった方には、
誠に申し訳なくも思ったりもしてしまうが、
ま、「誰にも頼まれず、自分が面白いこと」
ということがテーマのサイトであるからにして、
それは、ご容赦いただくしか、ない。
しかし、よく考えてみると、
「だから、どうなの?」という文章ではある。
と、我ながら、辟易としてしまっている。
こんなことを書いて、自分はどうするつもりか・・・
ま、いいか。
次は、もっと空間のデザインにフォーカスしよっ!
と、あくまでポジティブに、オプティミスティックに、
不適な笑みでも浮かべて、開き直ってしまおう。
しっかし、記念すべき第1回目の連載に、
ヤクザの家の、それもトイレ・・・
やっぱり、考え直した方がいいかもしれない。
商品名:カサ、ぶらぁ〜ん、か!
(ビニール傘ホネ製ビニール傘掛け)
用法:自己完結的にビニール傘を整理する。
材質:ビニール傘(ホネ部分)
制作時間:120分
<使い方>
ゴールデンウィークの大型連休も終わり、
フワフワうわついたマインドともおさらばし、
ここんとこのオレたち、クールに渋く決めてるぜ!
徹夜明けの朝の爽やかな空気に心ふるわせ、
夕陽をあびて西麻布を飛び交うカラスにも、
いつになく、哀愁を感じちゃうんだぜ!
でも、心地いい五月晴れもつかの間、
すぐにやってくる、あのうっと〜しい梅雨が、
オレの気持ちを沈ませるのさ。
だって、雨が降るとすぐに買っちゃうビニール傘、
近所の仲間が来て忘れてっちゃうヤツとか、
気付くと、オフィスの片隅にたまりまくってる。
「あ、雨、降りそ〜」って思っても、
絶対に持って行かないし、でも結局降ってきて、
また、どこかのコンビニで買っちゃうんだよなぁ。
もー、どーにかなんないかな、この傘の在庫・・・
そんな方には、
この「カサ、ぶらぁ〜ん、か!」がおすすめ。
古くなったビニール傘をホネだけにして、
ビニール傘のためのスタンドを作りましょ。
まさに、「ビニール傘のための家」、
「Casa・オブ・傘」とはこのことです!(ウマイ!)
傘のホネに寄り添うビニール傘を見つめながら、
彼女とアイアイ傘で歩いたあの日のことを思い出し、
「そういや、オレは、ホネヌキ、だったなぁ・・・」
なぁんて、うまいダジャレも飛び出すでしょう!
ウマ過ぎるオチに気を良くしたあなたは、
ビールでも飲みながら、考え込むかもしれません。
「でも、結婚して奥さんになると、
どうしてあんなにコワイんだろ・・・」
またまた、うまいコトを考えようとするあなたは、
きっと、苦笑を浮かべ、ニヒルにこういうはずです。
君の瞳に、乾杯!
カサ、ぶらぁ〜ん、か!
redmanがお届けします。
ご希望の方は、こちらから:ny_tres@mtd.biglobe.ne.jp
W350xD350xH800
商品名:タコや、KEY。
(キャラクター風キーフック)
用法:鍵を置き忘れないように、タコに預ける
材質:塩ビパイプ 直径21mm
制作時間:30分
<使い方>
デザイナーの生活って、
慢性寝不足なんだよなぁ ・・・・・
いつも締め切りに追われて図面描いて、
昼間は現場に出て、打ち合わせに追われて、
事務所に帰ると、ポケットの中のもの
財布とか、キーとかデスクに置くんだけど、
どこに置いたか分かんなくなっちゃうんだよなぁ 。
その上、デザイナー仲間は酒飲みばっかだし、
締め切り明けの飲み会なんて、キョーレツだよ。
いつも、「終わりなき戦い」的に飲んじゃうし、
オレもこないだ、飲みすぎて飲み屋でぶっ倒れて、
スカジャン忘れて来ちゃったもんなぁ・・・・・
まだ、スカジャン忘れるぐらいならいいんだけど、
たまに、ヘベレケで帰って、家の前に着いたとき、
「あれっ、カ、カギ、どこ・・ ・・・!?」 って、さ。
寝ているカミさんに電話して開けてもらうのコワイし、
結局、また、フッラフラでオフィスに戻って、
そこで力尽きて、寝ちゃうんだよなぁ、これが・・・
そんな方には、この「タコや、KEY。」がおすすめ。
事務所に入った瞬間に、
鍵を、真っ赤なかわゆい「タコ」に掛けましょう 。
あなたの鍵は、いつも、「タコ」が守っています。
壁にクギで打ち付けるも良し、
有孔ボード(穴あき板材)があれば、
オシャレに引っかけるのも良し、
タコの口にタコ糸通して窓辺にかけりゃぁ、
これからの季節、風鈴の風情も楽しめます。
徹夜明けのフッラフラで飲んでしまったあなた、
ようやく事務所にたどり着き、家に帰ろうとしたとき、
「あっ、か、かぎ・・・どこだっけ・・・・・?」
と、鍵を探すあなたの目に、真っ赤なコレが映るはず 。
そして、あなたはロレツも回らずこう言うでしょう。
かぎ、は・・・タコや、KEY!
redmanがお届けします。
シンプルモダン志向の方には、
真っ白な「イカや、KEY。」
シンメトリ・フェチのあなたには、
両側に掛けられる「カニや、KEY。」もございます。
ご希望の方は、こちらから:ny_tres@mtd.biglobe.ne.jp
W65xH55xD50
商品名:めるペンちっく
(簡易式花器風ペンシルロット)
用法:花のように色鉛筆を立てる
材質:ポリカボード/発泡緩衝材(モジャモジャ)
制作時間:30分
<使い方>
それにしても、オレたちのオフィス、
男ばっかで、何だかムサ苦しいなぁ・・・・・
昨日も締め切りに追われて徹夜だったし、
相棒は今、床で、ヨダレたらして寝てるし・・・
もう、春だというのに、何とかならないのかよぉ。
女性スタッフでもいれば、少しは華やぐのになぁ・・・
そうだ、「花」でも買いに行くか!
でも、待てよ、きっと誰も水をやったり
世話をしないことは、火を見るより明らかだ。
花はすぐに枯れ、そこには、無残な光景が・・・
そんなの、イヤだ!あまりに、悲しすぎる・・・
そんな方には、この「めるペンちっく」がおすすめ。
デスクに散らかる色エンピツを、
無造作に突っ込むだけで、デスクは片付き、
カラフルな色彩がオフィスに彩りを与えます。
生け花を学んで、流派にこだわるも良し、
キムタクにからむ監督風に「オレ流」でいくも良し、
ムサ苦しいオトコ所帯にキレイな花を咲かせましょ。
プレゼンに追われたカンテツ二日目、
モーローとした意識のあなたの目には、
色エンピツが「花」となって映ることでしょう。
そして、あなたは、きっとこう言うはずです。
め、め、める、ペン、ちっく!
redmanがお届けします。
ご希望の方は、こちらから:ny_tres@mtd.biglobe.ne.jp
W460xH190xD70
商品名:39ベリー・マッチ
(自己充填式マッチケース)
容量:3本入り/9本入り
材質:プラ段
制作時間:3分
<使い方>
あ〜、そろそろタバコやめようかなぁ・・・
う〜ん、でもなかなかやめられない・・・
そうだ、この手軽な「100円ライター」が元凶だ。
いつでも、すぐに火が付けられるこの文明の利器、
KIOSKでもコンビニでもどこでも買えちゃうし、
100円ショップに行けば、4コ入りで売っている。
これだ、タバコをやめられない理由は!
そんな方には、この「39ベリー・マッチ」がおすすめ。
いちいち詰めなきゃならない面倒くささと、
マッチが切れるとタバコが吸えない不便さが
快適なタバコライフを見事に阻害してくれます。
最初は、9本入りをたくさん持ち歩いても、
徐々に、3本入りひとつだけ、となり、
結果、もうタバコは面倒だからやめよう、
と不快なプロセスであなたを禁煙に導きます。
最後には、「タバコがやめられて、良かったぁ〜」
となって、あなたは、きっとこう言うはずです。
39(サンキュウ)ベリー・マッチ!
redmanがお届けします。
ご希望の方は、こちらから:ny_tres@mtd.biglobe.ne.jp
3本入り:W16xH57xD5
9本入り:W44xH57xD5
1月の初旬、現在進行中のプロジェクトの関係で、モロッコのマラケシュに出張しました。
昨年の5月にも行ったのですが、その時は3日間の滞在と短く、仕事ばかりでほとんど観光することが出来ずに帰国しました。
今回は10日間ほどの滞在だったので、観光という感じではないですが自由な時間が少しとれたので、そういう時にはあてもなく街を歩き建物を見たりカフェに入ってお茶を飲んだりスーク(市場)を見たりしました。
マラケシュは、マラケシュレッドと呼ばれる赤味を帯びた建物が多く、街全体が赤く染まった印象の街でした。
新市街と旧市街では全く趣が異なっていて、新市街は移動中の車の中から見ただけですが、高層のホテルやオフィスビルやレストランがあったりして結構近代的でした。
旧市街は世界遺産にもなっていて、赤味を帯びた左官仕上げの外壁やその表面が剥がれ落ちて下地の煉瓦が剥き出しになった建物と建物の間に、入り組んだ石畳の路地が無数に広がり、一歩足を踏み入れて佇んでいると映画の中にタイムスリップしたような感覚になりました。
今回、僕が滞在したのは旧市街のメディナの中にある小さなリヤド風の宿で、部屋数は8部屋くらいしかなく、各部屋の間取りや造りは全て異なっています。
部屋の天井と壁は、タデラクトというマラケシュ独特の左官仕上げで出来ていて、これが、色々な色や艶があって綺麗なんです。
床は、「ゼリージュ」と「ベジュマット」というモザイクタイルと素焼きのタイルで構成されていて、その上にカーペットが敷いてあります。
収納は、彫刻が施された木製の箪笥で、何とも、異国情緒溢れる空間でした。
部屋には、電話もテレビも無く、バスルームのモザイクタイル貼りのバスタブは、あまりに大きすぎて、お湯をためようとするとバスタブの底から10センチくらい溜まってくると水になってしまう、というようなところでした。
部屋の窓越しに見える中庭には円形の小さな噴水があり、そこには、毎朝薔薇の花弁がまかれ、微かな良い匂いが漂い、心が癒されます。
夕暮れ時には、火を灯した小さなキャンドルが幾つも配置される中庭に面した回廊を歩いてダイニングルームへ行き、夕食をとりました。
食後は、その隣の暖炉のあるリビングルームでお茶やお酒を飲むというような優雅さがありました。
フランス人の宿オーナーと、モロッコ人の奥さんは、とても親切で、ただ、英語が全くダメなので、お互いに紙に絵を描いたり、身振り手振りのボディーランゲージでコミュニケーションをとっていました。
英語が出来るメイドさんやボーイさんは几帳面で、サービスは良く、清潔だったので、設備のことなど気にならないとても居心地の良い宿でした。
メディナには、昔は公開処刑場だったという「ジャマ・エル・フナ(死者の集会)広場」と、その北側には、地元の人が言うところの「世界最大」のスークが広がっています。
ここには、衣食住に必要なものは何でもあります。
広場は、夕方5時を過ぎるあたりから、どこからともなく湧き出てくるように人が集まって来て、 蛇使いや、猿まわしや、火を飲み込む大道芸人たちやベルベル人が民族衣装を着て歩いていたりして、見ているだけで楽しい空間に、たくさんの屋台や露店が出ます。
スークの地図をもらったのですが、それを持っていても、自分がどこにいるのか分からなくなってしまいほとんど役に立ちませんでした。
一日中スークの中を歩いていても見きれないほどの店がありましたが、特に僕の興味を引いたのは職人のスークでした。鉄、銅や真鍮、染色、革、それぞれのマテリアルを職人たち鮮やかな手作業でモノを作っていました。
た とえば、鍋やトレーなど、銅や真鍮でモノを作る職人さんのところは、加工用の機械類は無く、新品ではない材料と、いくつかの型台と、ハンマーなどの道具 と、工具箱と、赤熱の炭床があるだけで、銅板や真鍮板を鋏で切って、型台に当てながらハンマーで叩き、繋ぎ目を真っ赤に熱した板で挟んで
一体にしていくという作業をしていました。
いかにも職人、っていう感じでかっこよかったです。
滞在していた宿から歩いて10分もかからない距離に広場があります。
広場の西に、クトゥビアの塔があります。
これは、4面がそれぞれ異なったデザインでムーア様式のミナレットと呼ばれるものです。
僕は、それを目印にして、どこへ行くにもまず広場まで行き、気に入った カフェの椅子に座り、モロッコの人が一日に何回も飲むという甘いミントティーを飲みながら、地図を見て行く方角を決め、あてのない散歩を楽しみました。
帰ってくる時にも、やはり、広場のミナレットを目指すというような感じで過ごしていました。
僕は、モロッコというと北アフリカの西の方でスペインから近い、とか、映画の「カサブランカ」や、はたまた「性転換手術」など、
とても貧困なイメージしか持っていなくてちょっと恥ずかしく思っていたのですが、実際に訪れてみて、あてのない散歩を繰り返すころで、文化的なディープさも体感し、もっと知りたくなりました。
歩くたびに、新しい発見と感動がある魅力いっぱいのところでした。
ドアの裏側。
普通、ホテルの通路側のドアには、
ルームナンバーが表示されている。
ゆえに、それをドアの表側と言えば、
部屋側は、ドアの裏、ということになる。
しかし、ひとたび部屋に入れば、
この裏側が客室空間の一部になるのだが、
ここに創意工夫があるのを未だ見たことがない。
「創意工夫」と言えば、小学生の頃の
習字のテーマだけであっていいはずはない。
よくよく考えてみると、かのポールスミスも
見えない裏地に創意工夫しているではないか。
部屋に入って、ライティングデスクに座って、
どうしても視界に入ってくるのは、この扉の裏側、
部屋のエントランスであることが結構多い。
比較的新しいホテルは一応化粧がしてあり、
邪魔にならないというか、
雰囲気をぶち壊さないというか、
消極的な設えが施してあることが多いが、
古くなったホテルをリノベーションした場合は、
ドアの裏まで手がまわってない場合がある。
ベッドの寝心地よさと、隠れ家的ロケーションが
一部で評判の白金のあの老舗ホテルの、
改装された客室でさえ、決して例外ではない。
部屋に入って、机を目の前にして座る。
さあ、もう電話もかかってこないぞ、
さあ、ビールの栓も開けちゃったぞ、
さあ、気の利いたことでも考えるぞ、
と意気込んで座った私の目に飛び込んでくるのは、
流行おくれのうらぶれたオフィスのような、
ペンキを塗っただけの貧相なドア裏だ。
これで、すべてがダメダメ!台無しだ。
まぁ、リノベーションの成功例として
一時は、チヤホヤもてはやされたものの、
1Fラウンジのもの悲しげな竹の枯れ具合と
フロントの女性スタッフの疲れ顔を見たら
村野藤吾さんも泣いているのではないだろうか。
最近、私がこのホテルに泊まったりする時には、
改装前の昔のままの部屋の方が落ち着いたりする。
安いし、広いし、ドアの裏もなじんでいるし。
それと、ベッドの寝心地は同じだし、ね。
悪口言ってばかりでは仕方がないので、
ココで、ちょっと頭の体操などしてみよう。
「創意工夫」するにはまだ修練が必要なので、
軽〜く、手短にできることから、ね。
今すぐにでも、できることを考えちゃおー。
まず、扉の内側にも表と同じような
ルームナンバーをかっこよくつけましょう。
なぜかと言うと、今では主流のカードキー、
これには部屋番号が記載されていない場合が多い。
まあ、落とした時のセキュリティの問題とか、
いろいろと考えられてはいるんだろうけど、
ホテルスタッフがコンピュータで確認しなければ、
ルームナンバーが分からないというのは、どうよ!
自分の部屋番号を確認できるものは、と言えば、
チェックイン時に、カードキーと共に渡される
二つ折りの紙製のカードケースだけ。
部屋の入口付近にある避難経路図にも、
部屋番号は、ほとんど記載されていない。
これが、とっても困っちゃうのである。
家にいる妻や娘に部屋番号を伝える場合や、
なにがしかの用で急に自分の居場所を
ホテルの外にいる第三者に伝えようと思っても、
すぐに、分からない時があるのだ。
あのありがたくない貧相な紙製ケースなんて
とっくにどっかにポイッ、しちゃっているのだ。
だいたい、自分の泊まっている部屋番号ぐらい、
すぐに女房に答えられなかったら、
あらぬ疑いをもたれるではないか!(怒)
また、そのような時に限って、
なぜか、パンツ一丁であったりして、
覗き窓で外に誰もいないのを確認して、
電話片手に部屋の扉を半開けにし、
片足外に出て表の表示番号を確かめる
なぁんて事態に落ち入りがちなのは、なぜ?
まあ、それはさておき、
いずれにしても、ドアの内側は未開の地だ。
さあ、ホテルのフロンティア目指して、開拓だぁ!
都市生活者が、都市のホテルに泊まるとき、
どのように過ごしているかと考えてみると、
大方の場合は横になって過ごす時間が多い。
ひとりで観たかった DVD を寝ながら楽しむ。
読みたかった本を寝転びながら読破する。
はたまた、男と女の営みは、寝て執り行う。
ホテルは、横になるための空間である、
と言い切ってしまってもいいほどだ。
もちろん、何かしら物を書いてみたり、
グラスを舐めながら妄想にふけったりと、
座って過ごす時間もそれなりにはある。
男と女の例の営み、その運動も、
たまには、座ったり、立ったりと、
バリエーションに工夫を加える時もある。
でも、座ったり立ったりという時間は、
ホテルライフにおいては、あくまで脇役で、
メインは、やはり、横になり、寝る時間だろう。
その、横になるための空間であるはずのホテルが、
実は、人が横になることをリアルには想像せず、
何となくデザインされている場合がほとんどだ。
別に一人でも、誰かと一緒でもいいけど、
寝て、見て、わかることがホテルにはあるのだ。
男と女のくんずほぐれずの、あの最中に、
そんなことを考える余裕はないかもしれないけど、
一度、じっくり横になって、よく見て欲しい。
なかなかセンスのいい部屋で、
ベッドはシモンズ、シーツはシーリー、
水周りもよく考えられていて使い良く、
グリーンやアートにも気が利いている・・・
なのに、ベッドに横になった瞬間に、
突如として襲われる、あの感覚。
そう、まるで、窮屈な箱の中で、
地べたに寝ているような、あの感覚。
雰囲気のいい空間から与えられていたはずの
さっきまでの、とってもいい気分はもはや萎え、
横になった私の目に飛び込んでくるものと言えば・・・
手入れをされずにササクレだった机の脚、
その背後に埃にまみれてからまるコード、
壁のアートフレームの底面の汚れ、等々。
すべて寒々しく、遠く、よそよそしい。
この空間を作った人が、何を考えて、
いや、何を考えずに作ったかが一挙に露呈する。
それは疑いようのない明確さで、
ノープランでそこに存在しているのである。
さて、本題。
パークハイアット東京の空間には、
ベッドの向かい側に大きめの什器が設えてあり、
テレビや飲み物が収納されていて、
ゆったりとした雰囲気を演出している。
でも、この什器の真骨頂は、
そんな落ち着いた存在感ではなく、
立っている時には目に付かないけれど、
ベッドに横になるとテレビの下に見える・・・
コレなんです。
コレ。
「気ぃ、利いてるやん」
この、寝転んでこそ見える、ということを
ここまで確信犯的にデザインしている例は、
今までに見たことがない。
アートへの配慮にしても、
天井にへばりつく高さに設置されているものや、
逆に、腰ぐらいの高さに設置されているものなど、
目線への気の利かせ方が、さりげなく、うまい。
置かれているものが特別にすごいとか、
壁にかけられたアートがすごくいいとか、
カッコ良くデザインされている備品とか、
そういう自己主張的なものは見当たらない。
巷のタウン誌などに書かれている記事を読むと、
結構、派手な印象で紹介されていたりして、
そのニュアンスには違和感を受けることも多い。
しかし、このホテルの人気の秘密は、
そんな雑誌的なゴージャス性にあるのではなく、
なにげに、さり気なくプランされた、
「目線のデザイン」にあるのではないか。
そう理解すると、妙に納得できたりする。
そういえば、最近汐留や品川あたりに、
モダンでお洒落で、適当に“カッコいい”ホテルが
やたらと増えて、幅を利かせつつある。
が、そこには、本当に何もない。
デザイン雑誌でよく目にする流行りの家具、
薄型のテレビやインターネットの液晶モニター、
カタログだけで選ばれたファブリックの類い、
そんな、こじゃれたセンスを動員し、
ありふれた部品で組み立てられた単なる空間。
ダメダメ、そんなの、ダメ出しの連続だぜ!
いやぁ?、グチっぽくなってしまった。
その訳は、今、この夜更けの環境にある。
実は、オフィスの床にエアキャップを 1枚敷いて、
その上に布団を敷いて寝ながら、これを書いている。
箱の地べたに、まさに寝ている。
当然のことながら、このオフィスは、
寝ることを考えてプランされていない。
実は、先回のパークハイアット東京の話は、
続きがあると思った人が、ことの他、多いらしい。
私としては、あれはあれで
サラッとしていいんじゃない?と思っていたが、
今の環境が、私に続編を書かせたわけだ。
寝ると、ほんといろんなものが見えるよなぁ・・・
見たくない様々なものが見えてしまっていて、
さながら、ネズミ的気分に支配されている。
そう、ここはパークハイアット東京ではない。
と、なりゃ、寝たもん勝ち。
「おやすみなさい」
去年、何気に「 BAZAR」という女性誌を手に取った。
もちろん、その雑誌を定期購読しているわけなどないが、
その特集、「海外デザイナーの愛する東京」が気になった。
その雑誌を見たのは、行きつけの床屋だった。
その店が定期購読していつも並べているので、
要は、ひまつぶしにたまたま手に取ったということだ。
いきなり話はそれるのだが、
この床屋、お母さんと娘さんたち3人でやっておられる
いわゆる家族経営のアットホームなお店である。
下の娘さんには生まれたばかりの赤ん坊がいて、
ベビーカーに乗っけて、子守りをしながらの散髪なので、
絵に描いたような家庭的な雰囲気が満ち溢れている。
しかし、その“超”アットホームな空気の中で、
待ち合いの椅子が、なぜか、 LC2なのだ。
そう、言わずと知れたル・コルビュジェの名作である。
混んでいる時にはそこで待たせていただくのだが、
そのあまりにも普通の家庭的な空間の印象と、
モダンデザインの古典とも言うべき家具の存在感が
妙にフィットして、何とも言えず気持ち良かったりする。
お母さん家族の人格がにじむ空気の成せる業か、
それとも巨匠のデザインの包容力の深さゆえか、
ここで、その所以を解読する愚は犯さないが、
(というか、できないので・・・・・)
とにかく、何はともあれ、私はここが好きなのだ。
話を本題に戻そう。
「海外デザイナーの愛する東京」である。
その中の質問に「お気に入りのホテル」
という項目があり、興味深く読んでみた。
ダントツで、「パークハイアット東京」が 1位だった。
建築は、新宿副都心、丹下健三大先生のアレ、ね。
もちろん、内部は外観のように大味ではない。
「自分でも泊まったからその良さは分かるけど、
ここまで群を抜いているとは・・・ほぉ〜」と驚いた。
もちろん、ダントツ 1位にはいろんな理由があるだろう。
大型ホテルにはめずらしいエントランスの静けさ。
エレベーターで上昇し、扉が開いたときの爽やかさ。
明るいラウンジを抜け、レストランを横目に通り、
突き当りを曲がった廊下のライブラリー的落ち着き。
ようやくたどり着くこじんまりとしたフロントの優しさ。
小粋で行き届いたコンシェルジェサービスの充実。
客室のしつらえをあげても、枚挙にいとまがない。
しかし、私の記憶に残っているのは、
そういった大掛かりな空間的仕掛けではなかった。
宿泊当日、友人から電話があった。
その時、思わず口をすべらせてしまった。
「今日、パークハイアットに泊まるもんね!」
と言ったが最後、悪夢のはじまり。
ゴージャスな都市的ホテルライフは夢と消え・・・
酒ビン片手の友人 3人が押し掛けてきた。
結果、大酒飲んで、ぐでんぐでんに酔っ払い、
絶賛だと聞く風呂にも入らず、メシも食わず、
その上、服も着たままで寝てしまっていた。
そして、あの二日酔い特有のけだるい覚醒、
ガンガンする頭が何かを聞いていた。
「ん?目覚まし時計・・・か・・・もう、朝?」
フラフラの身体を無理矢理に起こしつつ、
「何も見ず、飲んだだけか・・・高っかい一日」と、
とにかくベルを止めようとした私が見たものは!?
びっくりしないでね。(誰もびっくりしないか)
そう、どこか懐かし〜い郷愁漂う、あの
「四角い、 BRAUNの、黒い、目覚まし時計」
だったのです。
「えっ?ブラウンの普通の目覚まし時計?」
あの、ホテルでよく目にする、あれ、
ベッドサイドボードに埋め込まれたデジタルの、
目覚まし設定も面倒くさく、かつシャラクサイ、
イライラの元でしかない、あの時計でなく、その・・・・
「。。。。。。。。」
それはきっと、何気なく置かれたものではなく、
ここをデザインした人が、紛れもない意思と、
どこまでも明確な確信を持って置いたものだ。
「ホテルのデザイン」というものに対する
私の眼差しは、確かに、この瞬間、変わった。
「やるやん。」
本日、上野国立科学博物館へ「MONODZUKURI展」なるものがあり、ものづくりを
行う人間としては見ておかなければと足を運びました。ロボットから鋳物から木材
まで職人といわれる技術を見てきました。
出口付近に置いてあった技術軍団「磨き屋シンジケート」
以前、新潟県燕の知り合いの方から話は聞いていたのですが実際にサイト以外で
磨き魂を見たのは初めてで正直感動しました。
今回は車を磨きまくって金属肌を鏡面まで磨き上げてました。まだまだ私の磨きの技量は
甘いことを痛烈に感じました。

今日はもう一品 何かを感じるアイテムと出くわしました。

常設展示にあった[零戦」です。大戦がどうとか語るのはなしにしますがこの零戦は
1945年(昭和20年)飛び立って墜落し、1972年(昭和47年)にラバウル
(ニューギニア島の北に横たわるニューブリテン島の北端に位置する活火山を望む町)
北西110Km の海中で発見引き上げられたものらしいです。
詳しい機体構想などは説明できませんが エンジンは栄12型というオリジナルを積んでました。
72年、、この機体は海から陸揚げ、私は72年に産湯から陸揚げ?、、たいした意味はないけど
何かを偶然にも感じる機体ででした。
とにかく塗装をはがしてある場所のシルバーの機体とエンジン(栄12型)が美しい
工業製品だと思いました。