小説的空間はリアルの夢を見るか?
あざとくも、輝く空間
花村萬月著「二進法の犬」光文社文庫
ある時から、長い小説にしか興味がなくなった。
少なくとも、上下巻、それ以上なら、なお良い。
花村萬月を手に取った理由も、それだった。
とにかく、分厚い、その質量に眼がくらんだ。
読んでみて、ぶったまげた。
そこは、激烈な暴力とセックスの描写に満ちていた。
読み進むことをためらうほどの容赦ない暴力と、
あからさまな欲望で窒息しそうなセックスの光景。
しかし、既存の文学世界をなぎ倒すかのような
悪意にも似た世界を突き進んだその先には、
なぜか満ち足りた精神と爽やかな読後感がある不思議。
花村萬月という作家は、いったい何なんだ!?
と頭を抱えたが、ある解説を読んで一瞬に了解した。
以下、その解説に引用された氏の言葉。
「私は小説という表現が目指しているものは、
新たな倫理の確立、それしかないと信じています」
なるほど、新しい倫理の確立のためには、
まずは、既成の倫理の存立を危機にさらし、
言葉を失うほどの状況に物語をおくことによって
はじめて「新しい倫理」は発露する、ということか。
「新しさ」を古い言葉で記述することはできず、
言葉を喪うからこそ、そこに「新しさ」が生まれる。
しかし、それを「言葉の世界」でやろうというのだから、
その作業の困難さは、素人には計り知れない。
それ以降、ずっと花村萬月を読み続けている。
簡単に言えば、ファンになっちゃったのだ。
ある時、知り合いに「お薦めの本は?」
と聞かれ、迷わず、花村萬月と答えた。
その相手にも「あなたのお薦めは?」
と聞いたら、宮部みゆきの「火車」だった。
早速、「火車」を読んでみた。
それは、巧妙に仕組まれたストーリーで、
複雑に絡み合った糸を丁寧に解すように物語は展開し、
最後は、およそ犯人らしくない犯人に行き着くのである。
ストーリは巧みで、読者を強引なまでに惹きつけ、
気付くと、結末に導かれていたという快感であった。
しかし・・・はっきり言っちゃうと、もの足りなかった。
それは、何と言えばいいのか、
きっと、美し過ぎるのだ、あまりにも。
まるで、何かのカタマリを巧妙に彫り込んだ末、
最後には美しい彫刻が完成した、という印象だ。
花村満月は、ストレートに言えば、その逆だ。
はじめに、そのカタマリをぶっ壊そうとする。
凶器にも似た言葉でそれを徹底的に粉々にし、
その残骸で、新たに何かを構築しようとする。
ゆえに出来上がった彫刻は、
既成の美意識では語れず、
人によると、嫌悪感さえもよおすらしい。
ちなみに、私が薦めた相手も、そうだった。
どこが面白いのか、分からない・・・と。
要するに、花村萬月は、
常に、シロクロがはっきりしている。
時に人は、それを嫌悪する。
もっと、ファジーにしておきたいのだ。
良いとか悪いとか、はっきりさせないで、
グレーゾーンで、意味を弄びたいのだ。
でも、花村萬月は、それを許さない。
読者を、ファジーなゾーンに置いてはくれない。
常に、究極のどちらかの決定を強制する。
この「土壇場感」を容認できるかどうかは、
読者の、論理ではなく、生理に帰属する。
もっと大げさに言い切ってしまうならば、
その人の生き方そのものに関係するだろう。
だから、先ほどの氏の言葉に戻れば、
「既存の倫理で十分よ、新しい倫理など
無理につくり上げる必要ないじゃん!」
って方には、花村萬月は無用の長物である。
しかし、そうではなく、
「何?新しい、倫理!?」ってことに、
おもっきり反応してしまう諸兄には、
この花村萬月的世界は、響くのだ。
おっそろしく、響く、のだ!
そう、花村萬月を読むということは、
新しい倫理への、旅なのだ!
かなり大仰なイントロになってしまい、
いささか赤面モノではあるが、
しかし、言っていることは間違いではない。
(と、ここは言い切ってしまわないと、
それこそ、恥ずかしくなってしまいそうだ)
そろそろ本題に入らないと、まずい・・・
そこで、その 「シロクロはっきりの世界」
その究極が、この本だ。
「二進法の犬」
そのタイトルには、
0と1で動くコンピュータのデジタルの原理と、
絶対的な主従関係の中で、白黒つけずには
生きてゆけないヤクザの生き方が表されている。
そう、簡単に言っちゃえば、「ヤクザもの」の本だ。
しかし、もちろん、そう簡単には言えないんだけど。
主人公は、鷲津という京大出身の家庭教師、
それに、パソコンのインストラクターもやっている。
頭がいいだけに、全てが見えてしまい、
世間や社会や会社やその他全ての愚劣さを
知性的にも感情的にも認識して見切ってしまう。
ゆえに、会社も辞め、社会のはずれ者として、
一人で家庭教師をするしかできない人間である。
そんな鷲津に、武闘派ヤクザ「乾組」組長の
一人娘、乾倫子が家庭教師を依頼する。
この乾倫子の人格構造も半端なものじゃない。
ヤクザの娘ということで、幼い頃から特別扱いされ、
腫れ物に触るような扱いを受けて育った。
しかし、普通の女の子には絶対に理解できない
経験を積み重ねているので、恐ろしく聡明だ。
その女子高生、倫子が鷲津に対して、
本気か、思いつきか、現状否定の結果か、
「京大に入りたい」と、家庭教師を依頼する。
同時に、父親であり乾組組長の乾十郎が
最近はじめたパソコンの指導もすることになる。
この乾十郎は、武闘派の博徒で、
そのシロかクロかを徹底する生き様は、
壮絶であり、その行動原理には余白がない。
もちろん、メチャメチャ怖い人なのだが、
読み進み、その人格を理解すればするほど、
思わず、「ついて行きたい」という思いが生まれる。
(もちろん、ついて行かない、し、
というか、ついて行けるはずもないけど
でも、そんな気持ち、わかる人、いると思うなぁ)
その乾組長に心酔する子分が、中嶋だ。
元暴走族の中嶋は、自らを乾組長の犬と認め、
「組長の命令なら、親でも殺します」と断言し、
その生き方を、徹底的に完遂しようとする。
この中嶋が、またいい味を出していて、
その一途な生き方が物語に厚みを与えている。
物語は、倫子と鷲津の限りなく甘美で
果てしなく壮絶なラブストーリーとしての側面と、
乾組長たちのヤクザ世界が密接に絡みあって展開し、
その激流に、鷲津は翻弄されつつ、成長していく。
後半のくだりで、中嶋は鷲津に、
「虚無、あるいはニヒルとは何か?」
ということについて、教えを請う。
乾ファミリーが「血讐」のために、
(注:復讐ではなく、血讐、ですよ)
東京から神戸に向かう車中で、のこと。
鷲津は言う。
ニヒルの意味は、虚無。
ニヒリズムの対語は、リアリズム。
絵画を例にとってみると、
リアリズムは、意味や現実に奉仕する。
ニヒリズムは、自分自身を現実とし、
新しい意味を自覚し、世界と意味、
現象と現実を描き換える。
ゆえに、ニヒル、つまり無の思想は、
自立した個人の思索と態度があって成立する。
いわば、自ら獲得しなければならないもの。
時に、自らの意思で、強烈な闇までも
あからさまにしなければならないことがある。
さらに、鷲津は続ける。
自分は、乾組長や中嶋など、
アウトローと呼ばれる人と知り合って、
アクティブなニヒルを見たように思う。
ひどく不完全なアクティブニヒリスト。
場合によっては、惨めなリアリスト以下の、
ひび割れた無様なアクティブニヒリスト。
しかし、そこには、
ニヒルであろうとする、意思がある。
意思とは、道徳的な評価をくだす主体であり、
かつ、客体である力のこと。
主体と客体の双方を兼ね備えた力、
まさに、意思。
また、意思とは、
理性による思慮と、
その選択を決心して実行する能力。
そして意思は、
知識と感情に対立するもの。
乾組長たちには、
不完全ながらも、意思がある。
それは、能動的な無への志向。
鷲津は、乾組長たちの世界への
鮮烈な羨望を独白する。
そして、中嶋は言う。
「先生、撃ちましょう」
おっと、いけない。
このままだと、本題にまで行き着けない。
しかし、このあとの「虚無:ニヒル」の定義には、
かなりビリッと痺れること間違いないので、
気になる方は、是非、ご一読のほど。
では本題、
そう、「小説的空間」にテーマを絞る。
乾組の本部兼自宅は、間口が狭く奥に長い。
京都で言うところの「ウナギの寝床」だ。
ちなみに、京都は昔、
間口に対して年貢が科せられたので、
それで間口を小さくして、奥に長くなったらしい。
節税の意識は、古今東西、変わらないけど、
それが都市の景観と文化をかたちづくったわけだ。
現代の大型公共投資でできた再開発地域と、
民衆の知恵でできた街のどちらが美しいか?
税金使ってツマンナイ街ばっかつくる行政に、
ここで文句のひとつも言いたいところではあるが、
話題がとめどなくそれるので、それは、またの機会に。
格子戸を抜けて玄関までの通路は異様に狭い。
その上、その狭い空間に、巨大な庭石などが配され、
それこそ、人ひとり通るのがやっと、という設えである。
真っ直ぐに進めないようにしてあるのは、
殴り込みなどを想定したヤクザ的発想だ。
静けさの支配するこの屋敷は、
いわば、常時臨戦態勢なのだ。
その重苦しい気配と冷たく緊張した空気。
それらに支配された屋敷に、客用のトイレがある。
その広さは記述されていないが、
たぶん、三畳くらいは、ゆうにありそうだ。
乾組の若者は、屋敷に住み込んで、
まず最初に、そのトイレを磨く命令を受ける。
若者がいくら丹念に磨いても、
乾組長は、いろいろと難癖をつける。
それは、半日はおろか丸一日続くこともある。
中嶋は、それを早朝から深夜まで、
顔色ひとつ変えずに、磨き続けた。
それは、真冬だった。
かじかんで感覚をなくした指先に
息を吹きかけることもせず、中嶋は磨く。
日が暮れかける頃、中嶋の指から血が滲み始める。
それでも、中嶋は一心不乱に磨き、
バケツの水は、血で赤く染まった。
乾組長がトイレに現れたのは、午前0時。
中嶋は、血の滲む指を腰の後ろで組んで隠し、
組長の検分を、無言のまま受ける。
その時、中嶋の指から血が滴り落ち、
磨き込まれたトイレの板の間を染めた。
顔が映りそうなほどに輝く板の間に、
鮮やかな朱が盛り上がり、不規則に散る。
中嶋は、組長に謝り、磨き直そうとする。
組長は、「どけ」とひと言だけ中嶋に告げ、
中嶋はうな垂れたまま、便所の端に移動する。
組長は、おもむろに四つん這いになって、
板の間を汚した中嶋の血を、舐めた。
組長は、中嶋の血を舐め上げると、
首をしゃくって、トイレ掃除の終わりを告げた。
あざとい。
なんとも、あざとい。
あざと過ぎる・・・
「あざとい」という言葉の意味を
これ以上なく正確に表現する光景だ。
そして、この1600枚という超長編の、
描写されるたくさんの空間の中で、
最も私の脳裏に焼きついた空間である。
こういうところに反応してしまうのは、
私にも、このトイレ掃除の経験の記憶が、
色濃く残っているからかもしれない。
私の修行時代も、トイレ掃除から始まった。
建築家のアトリエに入社して、
最初にやらされたのが、トイレ掃除だった。
来る日も来る日も、
例外なく、トイレ掃除から一日は始まる。
次の新入りが入社してくるまで、
それは、当たり前に続いていくのである。
今となっては、懐かしい思い出だ。
それにしても、 そんな事務所、
今どきあるのだろうか?ま、どうでもいいけど。
だから、今、こう断言できる。
空間とは、どこまでも磨き上げるべきものであり、
いや、磨き上げなければならないのだ。
そういえば、かの倉俣史朗さんは、
自身がデザインされた空間の施工の時、
自分で掃除することを欠かさなかったらしい。
その話を聞いたとき、はっきり言って驚いた。
倉俣さんと言えば、「インテリアデザインの神様」
といっても過言ではないだろう。
その神様が、「僕にはこれぐらいしかできないから」
と言って、現場で、ガラスを磨いておられたのだ。
だから、僕たちが怠慢をかましていいわけはない。
空間に限らず、手にかける全てのものは、
すべからず、磨きに磨いて、磨き抜いて、
見たこともない輝きに出会えるその時まで、
連綿たる作業を繰り返すことが肝要なのだ。
そして、その作業の末にあるかもしれない、
新しい何かの誕生を、夢に見つつ。
今回は、「空間を磨く」ということがテーマになった。
はじめからそうプランして書き始めたわけではなく、
書き進んでいるうちに、こうなってしまった。
「小説的空間」ということで、
あたかも空間のデザインがテーマのようであるが、
実は、そうでもなかったようだ。
自分でも、何だかよく分からない。
何かの因果で読んでしまった方には、
誠に申し訳なくも思ったりもしてしまうが、
ま、「誰にも頼まれず、自分が面白いこと」
ということがテーマのサイトであるからにして、
それは、ご容赦いただくしか、ない。
しかし、よく考えてみると、
「だから、どうなの?」という文章ではある。
と、我ながら、辟易としてしまっている。
こんなことを書いて、自分はどうするつもりか・・・
ま、いいか。
次は、もっと空間のデザインにフォーカスしよっ!
と、あくまでポジティブに、オプティミスティックに、
不適な笑みでも浮かべて、開き直ってしまおう。
しっかし、記念すべき第1回目の連載に、
ヤクザの家の、それもトイレ・・・
やっぱり、考え直した方がいいかもしれない。