小説的空間はリアルの夢を見るか?
うしろむきに、全力疾走。
舞城王太郎 著 「煙か土か食い物」 講談社文庫 刊
誰かを、何かを、嫌う。
誰かを、何かを、憎む。
そんな感情は、確かにあった。
いや、今もあるのかもしれないが、
今やそれは、どこか奥底に潜んでいるようだ。
若い頃、この感情は、
確かなエネルギーとしてあった。
自分を突き動かす最大のパワーは、
「怒り」であり、「悔しさ」だった。
何か、やろうよ!という前向きのパワーより、
「くっそー!今に見ていろ!」というような
後ろ向きのパワーの方が強大だった。
悔しくて眠れなかったり、
絶対に見返してやろうと思うことで、
出し得る限りのエネルギーを動員し、
それで仕事の数々を乗り越えてきた、
そんな、気がする。
しかし、今は、そんなことはない。
ねえ、あの感情、どこ、いっちゃたの・・・?
と、問いかけたくなるぐらい、ない。
とはいえ、エネルギーは今も、ある。
どこからともなく、湧き上がってくる。
それは、以前より強いものかもしれない。
でも、以前はあったよなぁ、怒りのエネルギー。
そんなことを思い出しつつ、読んだ本。
「煙か土か食い物」
作家は、舞城王太郎。
たいそうな、名前。
ちょっと、ひいた。
で、変なタイトル。
「なんなの、コレ?」と思いつつ、
とにかく、読み進んだ。
結果を言うと、ものすごく、おもしろかった。
すっごい、大きなエネルギーを感じた。
主人公は、4人兄弟の末っ子。
そう、男ばっかりの4兄弟。
内容は言わないけど、
このタイトルには、こんな意味がある。
ギクシャクする4兄弟と父親の中で、
唯一、コミュニケーションのよりどころ
祖母・龍子が、がんに侵される。
その激痛にまみれた闘病生活の末、
龍子は、こんな台詞を繰り返す。
「生きてても虚しいわ。どんな偉いもんになってもどんなたくさんお金を儲けても、人間死んだら煙か土か食い物や。火に焼かれて煙になるか、地に埋められて土んなるか、下手したらケモノに食べられてしまうんやで」
最愛のおばあちゃんが、
こんなことを口走る光景、
孫にとっては限りなくキツイ、キツ過ぎる。
物語の大半を占める主人公の回想シーンには、
こんな悲しくも切ない思い出が満載されている。
しかし主人公は、あくまでクールに、
乾いた、極めて冷徹な回想を繰り返し、
にもかかわらず、その淡々とした語り口によって、
物語が感情に押し流されるのを見事に回避する。
物語の中心にいるのは主人公ではなく、
父親と、4兄弟の次男、二郎だ。
二郎は、父へと強く傾倒する愛情ゆえに、
いつも父を激怒させる結果となってしまい、
最後は、庭にある土蔵に閉じ込められる。
日常的にはあまり立ち寄ることのない空間。
昔の家屋には、そんな空間があった。
そういえば、私の生まれ育った家にも、
裏庭に納屋があったことを憶えている。
子供にとっては、なぜか恐ろしく、
近づきたくはないが、気になって仕方のない空間。
私も、何かワルサをして親を怒らせて、
納屋に閉じ込められたことがあったかもしれない。
でも、そうだとしても、それは暗い思い出ではない。
その時は、親を恨んだかもしれないが、
そんな感情は、今は、みじんもない。
それは、昔の家にはあった
究極のプライベート空間だったのかもしれない。
日常では全く必要のない空間。
どこか別の次元につながっているような、
そんな不思議な空気と時間が支配する空間。
今や、そんな空間は望むべくもない。
マンションの数十平米の空間では、
全てが日常化してしまう。
親の怒りもそのまま空間に漂い、
子供を、本当の意味で、
一人にすることさえできない。
子供に与える「個室」は、
一人で生きるための空間、ではない。
そんな息も詰まりそうな空間だから、
親が子を、また、子が親を、
傷つける事件が起こるのではないか。
たった一人きりになって、
じっくりと考えられる非日常の空間が
人間の生活には絶対に必要なのだ。
怒りを解放し、憎しみに向かい合う、空間が。
前を向いて生きていくしかない、とは言うが、
後ろ向きの自分に向き合う時間も必要だ。
後ろ向きに、全力疾走するような、
そんな自分をしっかりと認識できる 「空間」。
後ろ向きに、全力疾走、か。
でもそれは、極めて、健全な心の運動かもしれない。